風組(年長児クラス)になり、初めてのリーダー決めをしました。実際にリーダーを決める前に、子どもたちに「リーダーって聞いたことある?」と尋ねてみました。
「ある、ある」と子どもたち。「どんなとき?」と言うと「あのさ、遠足とか行くときに並んでるとき」と玄貴くん。「あと、運動会の時に前に出て“エイエイオー!”とかやってたよねぇ」と大城くん。そのほかにも「たてわりのとき、リーダーがいたよ」「班の仕事のときにも」とさまざまなときに“リーダー”という言葉を耳にしていた子どもたちだったようです。
当時の風組の様子を見ながら、きっと“風組になるとリーダーって呼ばれる人がいるんだ” “リーダーっていう響き、なんか格好いいな” ―そんなふうに思っていたのかもしれませんね。子どもたちの言葉を聞きながら“実によく見て、よく聞いているもんだなぁ”と改めて感じたのでした。
風2組 学級通信 「麦」より
年長児クラスに進級して1ヵ月後の5月のゴールデンウイーク明け、風の谷幼稚園では「リーダー決め」というカリキュラムがスタートする。いつの時代でも、そして現在のような大きな構造変化が起こりつつある時代には特に、リーダーの重要性が声高らかに唱えられる。そして社会人を対象にした「リーダー養成講座」も各所で開催されている。しかし、「リーダーとはどうあるべきか」を教える講座とは異なり、風の谷幼稚園における「リーダー決め」の意図するものは、実に幅広く、奥深く、そして興味深い。その詳細を2回にわたってお伝えしよう。
「リーダーがいたほうがいい」
それはなぜ?
このカリキュラムの大きな目的の1つは「リーダーとしてふさわしい人はどんな人か?」を子ども自身に考えさせることだが、いきなり子どもたちに考えさせるわけではない。その助走として「リーダーがいたほうがいい」という合意をつくっていくところからカリキュラムはスタートする。
冒頭のエピソードにあるようにリーダーという存在について「なんとなく」のイメージはあるが、まだピンときていない子どもたちに向かって、先生がリーダーの役割について説明する。
「リーダーは班の仲間が全員いるかどうかを数えて先生に報告する人」
「集まりのときには、みんなに声をかけて集める人」
「班で何かを決めるときに、みんなの意見を聞いてまとめる人」
「班の仲間が困らないように、仲間の世話をする人」…
このような説明を聞き、年少・年中児のときに見た年長児クラスの様子を重ね合わせながら、子どもたちの中に「リーダーってこんな感じ」というイメージが徐々にできあがる。
そして、「リーダーがいたほうが、いろんなことが自分たちだけでできるようになるんじゃないのかな?」という先生の問いかけに、満場一致で「リーダーがいたほうがいい」という結論に至る。このプロセスを丁寧に踏むことには、もちろん理由がある。初めから「リーダーありき」ではなく、「リーダーとは自分たちの生活を良くするために存在するもの」という意識の下地をつくるためだ。この下地が、リーダーとして選ばれる側とリーダーを選ぶ側の双方に「責任感」を生み出すことにつながっていく。
「きちんとした人」ってどんな人?
もちろん、年長とはいえ幼稚園児だ。最初から責任感のある「リーダー決め」ができるわけではない。この先に待っている場面は、おそらく読者のみなさまもご想像の通りだ。
「オレ、やりたい!」
「私も!」
立候補する子どもがいる一方で、事態の進行を見守る慎重な子どももいるが、「オレも」「私も」の声が入り混じり各班の議論はにぎやかになってくる。そこで先生の出番となる。
「どんな人がリーダーだったら良いと思う?」
ここで、ある子どもから「きちんとした人」という意見が出る。すると再び先生の質問が飛ぶ。
先生:「きちんとってどういうことかな?」
子ども:「うーん、ちゃんとした人」
先生は苦笑いをしながらも、さらに質問を繰り返す。
先生:「じゃあ、どんな人のことを“ちゃんとしている人”って思う?」
子ども:「…。あっ、人の話が聞ける人!」
さらに子どもたちからは次々と意見が出る。この様子を学級通信から見てみよう。
「働き者の人」と真愛ちゃん。なるほど、仕事を一生懸命やれる人がいいのでは…と考えたのでしょうか。「いろんなことをたくさん考えられる人がいいと思う」と萌ちゃん。それを聞き「あっ! “なぞなぞ”とかでいろんなことばを考えたりとか?」と和輝くん。萌ちゃんの言葉を聞き、和輝くんは、いろんなことを知っている人(物知りな人)がいいんじゃないかと思ったようです。ですが、萌ちゃんの“考えられる人”というのは、和輝くんの“考えられる”とは違っていました。
「そうじゃなくてね、みんなで何か考える時に“こういうのがいいんじゃないか、ああいうのがいいんじゃないか”っていろいろ考えられる人がいいと思うの」と言う萌ちゃんです。それを聞き「あぁ、そういうことね」と納得の和輝くん。こんなやりとりを聞きながら、他の子どもたちも“そうか、そうか”と共通のイメージが持てていくようでした。
「考えられる人」という意味では、また別の意見も出ました。「あのね、いろんなことを考えられる人」と言う二奈ちゃん。“ん? 萌ちゃんと同じ意見なのかな?”と思いつつ「萌ちゃんが言ってるのと同じことではないの?」と聞くと、首を横に振る二奈ちゃんです。「う~んとね…」と言いながら、自分の頭の中を整理している様子。そして「自分で考えて決められる人のこと」と二奈ちゃんでした。
また「強い人」と萌ちゃん。“強いってどういう意味の強いなんだろう”と思い「強いっていうのは―?」と私。「こま勝負で強いってこと?」と和俊くん。思ってもみない『強い』の中身にビックリしたのは担任です。「えっ! 萌ちゃん、そう?」と思わず聞いてしまいました。
和俊くんの「こま勝負が強い人のこと?」という発言に、少々苦笑いの萌ちゃん。「う~んとね…強い人って言うのは、仲間が困っている時に守ってくれたりするような…優しい人かな…」と説明する萌ちゃんでした。
風2組 学級通信 「麦」より
このような議論を経て、少しずつ「リーダーにふさわしい人物像」が明確になり、その概念が共有されていく。このプロセスを経て「リーダー決め」は、実際の選考に移っていくわけだが、ここまでの思考と議論を経験することが大切なポイントだ。
なぜ、このプロセスが大切なのだろう? 実際に小学校や中学校、さらには大人になった現在ですら、「リーダーにふさわしい人物像」を、「きちんとした人」とか「リーダーシップのある人」という抽象的な概念で定義し、そこで思考停止してしまうことが多いのではないだろうか? しかし、これでは「リーダー選び」は感情的・表層的な選考に流れやすい。また、この人物像が具体化されるからこそ、リーダーになりたい人にとっては「リーダーに求められているものは何なのか?」が明確になり、それが行動指針となる。この一方で、リーダーを選ぶ人にとっては、この具体的人物像が客観的かつ冷静な人選を行うための基礎となる。だからこそ、このプロセスは、このカリキュラムになくてはならないものだ。
「少し大げさかもしれませんが、この『リーダー決め』を通じて、子どもたちの『人を見る目』を育てていきたいと考えています。実社会においてもそうですが、リーダーとして選ばれる人よりもリーダーを選ぶ人の数が圧倒的に多いのです。だからこそ、学校教育においては、リーダーとして選ばれる人を対象にした教育とセットで、リーダーを選ぶ人の“人を見る目”や“選ぶ力”を育てることが大切だと考えています」(天野園長)
前述したとおり、リーダーを選ぶ理由は「自分たちの生活が円滑に進むようにするため」である。決まりごととして「リーダーを選ばなければならない」から選ぶのではない。これは私たち大人も持つべき大切な視点だ。だからこそ、リーダー選びには各自が責任を持って取り組む必要があり、選ぶ側が明確な基準を持っているか否か、その基準に照らして冷静かつ客観的に人を判断ができるか否か、が重要になってくる。
このリーダーを見極めるために必要な眼力や選択力は、一朝一夕には育たない。そこで風の谷幼稚園では「子どもたちが生きていく未来の社会」がより良くなることを願い、年長児クラスではさまざまなタイミングで「リーダー決め」の機会をつくり出し、この思考と議論を繰り返し経験させる。実に高い視点だが、「この意図を教える側が持っていること」と「繰り返し行われること」が大切なのである。
また、このプロセスにはコミュニケーション力を高めていくための大切なエッセンスも含まれている。それは、自分の思いを適切な言葉に変換したり、逆の見方をすれば、相手の思いを“言葉”を手掛かりに推察したりして、意識をすり合わせていくことだ。このエピソードからもわかるように、使われる言葉は同じでも、思い浮かべているものは全く別であることが多い。そして、このギャップは大人でも往々にして起こる。だからこそ、自分の思いを適切な言葉で伝えたり、言葉を置き換えたりしながら相手の思いを見つけ出せるような力が必要だ。この観点で考えるならば、抽象的な概念で思考停止しやすい「リーダー決め」というテーマは、この力を育てるにはむしろ適切な素材と言える。思考停止することなく、思考を深めながら具体化し、適切な言葉を探し、相手の心中に思いを巡らせる。これがコミュニケーション力の土台となり、その力を高めていく。
ここまでの取材だけでも「なるほど」と唸ってしまったが、風の谷幼稚園の「リーダー決め」の教育意図はこれに留まらない。他にも大切なポイントがある。それは、日本の教育において間違いなく不十分といわざるを得ないテーマに対しての取り組みである。これについては次回、エピソードとともに詳しく紹介していこう。