先生: 「これは海の中に住んでいます」
子ども: 「それは魚ですか? 貝ですか? 動物ですか?」
先生: 「いい質問だね。これは動物です」
子ども: 「食べ物はどんなものを食べますか?」
先生: 「海の中に住んでいるアミなんかを食べるかなあ」
子ども: 「先生、アミってなんですか?」
先生: 「アミっていうのは、エビが小さくなったような生き物のことを言うんだよ」
子ども: 「口はとがっていますか、とがっていませんか?」
先生: 「うーん、とがってないよ」
子ども: 「それはどんな色をしていますか?」
先生: 「うーん、黒いのもいれば灰色のもいるよ」
(中略)
子ども: 「それは潮を吹きますか?」
先生: 「はい、吹きますよ」
先生: 「さあ、わかったかな? じゃあ、みんなで答えを言ってみよう。せーの・・・」
この先生の「せーの」の掛け声に応じて、子どもたちは一斉に答えを口にする。(さて、読者のみなさまは答えがお分かりになっただろうか?)
「くじら!」
「はい、正解です。ちなみにくじらってのはね、家族で生活するんだよ・・・・」
と、この後、先生は子どもたちに「くじら」の生態を説明し始める。子どもたちは「へー」と興味津々に聞きいっている・・・。実はこれはゴールデンウイーク中に行われた風の谷幼稚園の新人教員研修のひとコマ。風の谷幼稚園では、年長児クラスを対象に1年間かけて「言葉の指導」というカリキュラムを行うが、そのカリキュラムは写真にあるように、絵を裏側に向けて先生が子どもに向き合い、質問に答えながら絵に描かれているものを当てさせるというものだ。
この研修は、先輩教員が先生役、新人教員が子ども役となり、園長がアドバイザーとして行われたが、このカリキュラムは年長児の子どもにとっても先生にとっても重要な意味を持つ。今回は、この通年カリキュラムである「言葉の指導」に込められた教育意図を紹介していこう。
「自由に生きる」ためには
語彙が豊かであることが大切
多くの語彙を獲得することが教育上プラスであることは説明の必要もないだろう。言葉を覚えることによって、世の中の現象や物体を認識し、その意味合いや構造を理解することができるようになる。
しかし、風の谷幼稚園では「ただ単に語彙を増やすだけでは教育効果は限定的なものにしかならない」ということを認識し、「言葉の指導」には別の視点を導入している。それは何か?
「子どもたちに“自由”を与えてやりたいと思うのです。“自由”というといろいろな解釈がありますが、風の谷幼稚園で教えたい“自由”というのは、自分の中にある思いを自在に表現できるような“自由さ”のことです」(天野園長)
多くの語彙を獲得していくことで、子どもたちは自分の内側にある複雑な「思い」を適切な言葉によって人に伝えることができるようになる。そして、その逆もしかり。人が伝えようとしていることを言葉を介して理解できるようになる。
また、言葉を手掛かりに自然や動物、人工物などあらゆるものへの好奇心を高めてゆくと同時に、言葉を介して人と話し合い、自分とは違った見解を受け入れる度量を広げていく。
つまり、言葉の力によって世界を広げ、人と心を通じ合わせ、社会生活を豊かにしていくことができるようになること。これが風の谷幼稚園の考える “自由”の獲得であり、語彙の獲得は幼児教育の仕上げの時期である年長児には欠かせないものと考えている。この認識のもとで先生たちは子どもたちに「言葉の指導」を行っているのである。
言葉の指導を通じて
思考力を育てる
さて、話をカリキュラム内容に戻そう。冒頭では「くじら」を当てる様子をお伝えしたが、この後、設問は「あくび」「マイク」と続く。実はこの順番にはある規則性が隠されている。さて、お気づきになられただろうか?
「くじら」
「あくび」
「マイク」
つまり、「く」の文字(音)が単語の「冒頭にあるもの」「中間にあるもの」「末尾にあるもの」を順番に当てさせていくのである。これを実際に行うと、勘のいい子どもは2問目の「中間にあるもの」が終わった時点でこの規則性に気がつき、最後の設問は「末尾に“く”の文字がはいっているもの」を思い浮かべながら質問をしてくるというから驚いてしまう。そして、もちろんこれは教育意図の想定内の話である。では、さきほど紹介した“自由の獲得”のほかに、どのような意図が込められているのだろうか?
「言葉の指導を通じて、子どもたちに思考力を育てていきたいと思うのです。ただ言葉をたくさん覚えさせるだけではなく、この語彙を獲得していく過程を通じて、“自分でいろいろなことが考えられるようになる”ということを重視して指導に当たっています」(天野園長)
「予測する力」や「類推する力」、あるいは「先を見通す力」や「いろいろなものを関連づけて考えられるようになる力」など、思考力の内容は多岐に渡るが、自分で考えることを促し、正解を覚えるのではなく自分の思考によって導き出そうとする姿勢を身につけさせる。これが「言葉の指導」の大切な目標だ。
実際に子どもたちは、先生から与えられたヒントをもとに自分で必死になって考える。「答えを教えて!」という子どもはいない。この子どもたちの姿を見ていると、「いつの間に、答えを自分で考えようとせずに他人に依存するようになったのだろう?」という疑問が頭をよぎる。この原因究明はさておき、現代が「自分で考える」ことが求められている時代であるのはいうまでもないだろう。言葉を獲得していく過程はある程度「覚える」という側面もあるのだが、風の谷幼稚園ではこの過程を「自分で考える機会」と捉え、一つの言葉を丁寧に教えながら、子どもたちには、「自ら思考すること」を促しているのである。
言葉の指導で先生も育つ
そして、この思考力の中でもとりわけ重要なのは「質問する力」だろう。うまい質問ができれば、より早く答えを導き出すことができる。そして、本質に迫っていくことができる。そこで、この「言葉の指導」においては、子どもたちの質問の仕方についても、きめ細かい指導が行われることになる。例えば、以下のようなやりとりが先生と子どもの間で交わされることになる。
子ども: 「それは大きいですか?」
先生: 「大きいっていうのは何と比べて大きいって言ってるのかな?」
子ども: 「それは海に住んでいますか? 陸に住んでいますか?」
先生: 「生き物が住んでいるのは海と陸だけかな?」
子ども: 「あっ、それは海か陸か空のどこに住んでいますか?」
前者の例では、子どもたちに基準を共有することを促している。「言葉の指導」は、子どもたちが先生に質問を投げかけ、それによって明らかになったことを集積しながら次を予測し、最終的にチームで答えを導き出すゲームである。であれば、ある質問が他の子どもにとってもヒントとなることが望ましい。このように質問の仕方を少し変えれば、他の子どもの参考にもなるし、答えに早くたどり着くことができる。
そして、後者の例では、論理的に洩れのない思考を行うことによって、答えを絞り込んでいく質問の仕方を教えている。つまり、「空に住む生き物(鳥)」が答えの対象になるかどうかが、この質問で明確になる。
このようなプロセスを経て、子どもたちの間には「論理的に物事を考える」という下地がつくられていくのである。
このように、漠然としたテーマに対して的を絞りこんでいく「質問する力」を教えることは、先生の技量が問われる過程でもある。決してパターン化できない子どもたちからの質問を的確に受け止め、その質問内容をより精度の高いものに指導していくことは極めて高度な指導といえるだろう。しかし、園長が若い先生たちに求める水準は極めて高いものだ。それは、この「言葉の指導」は知性が大きく成長する時期である年長クラスの子どもにとって非常に重要なカリキュラムであるとの認識からだ。そして、この高い要求に答えようと若い先生たちも必死で学ぶ。
また、この「言葉の指導」は先生たちの一般教養が指導に大きな影響を及ぼす。例えば、冒頭の「くじら」の例でいえば、「アミを食べること」などの知識があるかどうかによって質問に答えられるか否かが決まる。さらに、子どもたちが答えを出した後に、「家族で生活すること」のように子どもたちの興味を広げていけるような情報を与え、子どもたちの好奇心を刺激する話ができるかどうかも大切だ。しかも、それらはすべてが「臨機応変」に行われなくてはならず、子どもたちが混乱しないように1度に提供する情報のボリュームや範囲も勘案していかなくてはならない。これに備えて、先生たちには日頃の勉強が要求されることになる。そして、その勉強はいつまでも終わることがない。「先生ってたいへんだ」と思われるかもしれないが、子どもの健やかな成長のためにすべてがある風の谷幼稚園においては、先生が一緒に学んでいくことはごく自然なことなのである。
さて、風の谷幼稚園の3年間の教育をお伝えしてきた本連載だが、次回がいよいよ最終回となる。最終回では、卒園式の模様とともに3年間の教育の総括をお伝えしていこう。