子どもが、子どもとして、子どもらしい時代を過ごせる。大人の都合ではなく、子どもの健やかな成長のためにすべてがある。そんな理想の幼稚園をつくりたい。
その想いを実現するために、文字通り“裸一貫”で行動を起こし、理想の幼稚園を創り上げた女性がいる。天野優子氏である。当時48歳。資金なし、資産なし。「どうすれば幼稚園をつくることができるのか」という知識すらない。あるのは情熱と実践力だけ。しかし、岩をも通すような子どもに対する情熱と信念、その桁はずれの行動力は4億円相当の土地の寄付を得て、その想いを現実のものにしてしまう。
それが、神奈川県川崎市麻生区にある「風の谷幼稚園」である。
1億2000万分の1の確率を信じて、
一人の女性が動き出す
「今にして思えば無謀な発想だったと思いますが、当時は自分の無謀さにも気づいていませんでした(笑)。私には情熱と実践力がある。無いのはお金と土地だけだ。日本には1億2000万人の人がいる。日本の幼児教育を憂いて資金や資産を提供してくれる人を1人見つけ出せばいいだけのこと、と思って行動に移したのです」
それからは、あちらに資産家がいると聞けば一目散に駆けつけ、こちらで遊休地があると聞けば直談判に赴くという、まさに“体当たり作戦”を敢行。しかし、資金や土地を得ることはできなかった。当然と言えば当然である。
しかし、その程度のことでくじけるような生半可な情熱ではない。使命感とも呼べる彼女の想いは、海をも渡ることになる。
ある時、彼女は「大企業の経営者であれば資金を提供してくれるかもしれない」と思いつく。そこで、経営者の会合があると聞けば、あらゆる会合に駆け付け始めた。しかも、すべて飛び込みで。
中でも圧巻なのは、知人から「中国で企業CIに関する経営者の会合がある」という情報を聞きつけたときのこと。その知人に頼みこみ、自腹を切って中国・北京の会場へ。そこで経営者のスピーチをすべて聴き終えた彼女は、「この人だ」と直感した人物にアプローチを試みる。話しかけるタイミングを見計らいながら、その人がふと席を立ったその時、彼に近づいて自分の構想を語り始めたのだ。
場違いと言えば場違いに違いない。しかし、その情熱に心を動かされたのか、彼女に圧倒されたのかは定かではないが、「東京で話を聞きますよ」との言質を得て、なんと面会は本当に実現した。
日本の幼児教育に対する危機感や幼稚園の構想を語り、面会後は手紙を書いた。そして再び面会の機会を得て、それが2度、3度と重なっていく。その経営者からは「なぜ、私はあなたから、こんなにたくさん手紙をもらうのでしょうね」と半ばあきらめたように言われたという(その結果、「資金面では難しいが、他のことなら」ということで、幼稚園の設備面で多大な協力を得ることになった)。
また、中国で知り合った女性の紹介で、企業人の勉強会にも参加した。そこである大企業に勤務するビジネスマンのスピーチを聞いた。そこでまたしても「誠実そうなこの人ならば」と感じた天野氏は、その人物に想いを語り、彼の勤務する会社の社長との面会の機会を得ることになった。その時には、時間を十分確保するために一計を案じた。
「忙しい人だから面会に多くの時間を割いてはもらえない。でも、食事は誰だってとるはず。そうだ、お弁当の時間に面会をしてもらえばいいんだ」
そこで、昼食時にアポイントをとりつけ、なんと手作りのお弁当持参で面会に向かった。そして「食べているから口はふさがっていますが、耳はあいているでしょうから、私の話を聞いてください」と、熱いプレゼンテーションが始まった。その時の社長の困った顔が目に浮かぶようだが、見事、資金協力を得ることに成功する。
そんなある日。
「かつて勤めていた幼稚園の教え子のお母さんから、現在の幼稚園の土地提供者の方を紹介してもらいました。実は、このときは企画書すらできていなかったんです。口頭でひとしきり説明すると、その方は『いいですよ』とひと言。うれしいというより、こんな人もいるのか、とびっくりしました」
ちなみにその土地…幼稚園設立当初の敷地約700坪は、当時の時価で約4億円相当。まさに奇跡は起こったのである。
解決できない問題などない
これが“風の谷”の常識
しかし、“土地さえあれば幼稚園ができる”わけではない。たとえば、学校法人の認可の取得も難関だった。学校法人の認可は非常にハードルが高い。当初は「理想の教育ができる場であれば形式は関係ない」と考えていたのだが…。
「実は、提供された土地が市街化調整区域だったため、学校法人の認可を得た幼稚園にしなければ建物が建てられないことがわかりました。そこで県庁への日参が始まったのです」
しかし、県庁を訪れた当初は、認可取得への見通しは決して明るくなかった。
県庁職員は親切に対応してくれたが、まず「幼稚園の需要がない」と指摘された。「その地域には幼稚園新設の要望もなく、この少子化時代に幼稚園をつくることは考えられない」というのが県庁の見解だった。そして「神奈川県内には、人口が増加している地域を除いて、原則として新設幼稚園は認可しない」と言われてしまった。
普通なら、この一言でくじけてしまいそうなものだが、理想の教育実現に向けて研ぎ澄まされたセンサーは、この「原則」という言葉に鋭く反応した。
「それは原則でしょ? 特例をつくればいいんですよ!」
原則があるということは特例があるということ。特例として幼稚園をつくるのであれば何ら問題はないはず。こんな言葉が、天野氏の口から矢継ぎ早に飛び出した。
「まあ、そりゃあそうですけどね…」
県庁職員は苦笑いをしながらも、話を聞いてくれた。ここでも熱い語りが始まった。そして、ひとしきり話を聞いた後、
「あなたのような人が幼児教育を行うことが大事なんですよね」
と、ついには理解を示し、学校法人の認可取得の方法を丁寧に指導してくれた。再び奇跡は起こったのである。
しかし、困難はこれでは止まらない。土地は得たものの、建物の建設には2億円以上の資金が必要だ。寄付によって得られた資金は1000万円。私学財団から1億3000万円を借り入れたものの、まだまだ足りない。そこで家族を説得し、自分たちの住む家はもちろん、夫の実家までも担保に供し、資金を借り入れた。彼女自身、「10年間無給」との覚悟を決めて。
このほかにも、幼稚園設立にまつわる困難を書くならば、1冊の本でも足りない。しかし、それらをすべて解決し、乗り切った。
こうして、1998年4月、「風の谷幼稚園」は船出を迎えることになるのである。
「やればできる、と思えばできる」
「やればできる、と思えばできる」
これは卒園した児童が、5歳のときに、正月のカルタに記した自分の言葉である。
この天野園長、そして彼女の教育理念に共鳴する先生たちと3年間の時を過ごすと、いつの間にかこのような思考回路が出来上がるのだろう。
では、この天野園長の理想郷ともいえる「風の谷幼稚園」では、どのような子どもを育てるために何を教え、日々どのように園児や親と向かい合っているのか。これを、次回から詳細に伝えてゆくことにする。
園長 天野優子氏
1946年生まれ。高校卒業後、大手水産会社に入社して10年間勤務。その間に結婚して2児を設ける。自身の子育て経験から安心して子どもを預けられる保育所の必要性を痛感し、保母への転身を決意。74年、会社を退社して保育専門学校に入学する。卒業後は公立保育所、私立保育所などを経て、都内の私立幼稚園に。ここで14年間勤務し、教務主任も務める。95年3月に退園。その後、理想の幼児教育を実現するために奔走し、98年4月、神奈川県川崎市麻生区に「風の谷幼稚園」を開園する。