第20回 2016年 エネルギーの湧く夏

6月1日、2011度に卒園して今年5年生になる我風くんから電話が入った。
とても改まった声で「天野先生とお話がしたいのですが、ご都合は如何でしょうか」と言うものだった。
5年生の言葉とは思えないほどの丁寧で大人びた言い方に内心「何が起きたのだろうか」と胸がざわついた。
幼稚園時代は何をするにも「お母さんと一緒がいい」の我風くんだったので、心のどこかで“お母さんと一緒にくるのかなぁ”と思っていた。

ところが、数時間後、通用口の階段を降りて来るその姿は、シャキッとした少年の姿であった。
思わず「お母さんも一緒?」と声を掛けてしまったが「いいえ、ぼく一人です」の声が返ってきた。
「久しぶりだね。元気だった?」と声を掛けながら年長児の教室に案内したが、幼稚園を卒園して5年、身長は伸びているものの、顔には幼い頃の面影がいっぱい。

教室に入ると「あぁ、こんなでした・・・」「椅子も机もこんなに小さかったんですね」と懐かしそうな目で見まわしている。
机を挟んで子どもの椅子に座って「我風くん上海に行っていたんだよね。いつ帰国したの?」と尋ねると「3月に帰国して4月から柿生小学校の5年になりました」。
物珍しさもあって上海での生活についてあれこれ話をしてもらった後、「ところで何か先生に用事があったんでしょ」と話を向けると「自分は、風の谷幼稚園で育ててもらった。お世話になった、と思うのでその恩返しをしたいと思ったのです。ですから、何かお役に立ちたいのです。何か仕事をさせてください」と真剣な眼差しで言って来た。

何とも嬉しい申し出でではあっても、すぐに思いつく仕事もなく、まずは幼稚園5年間の変化を見てもらう事にした。
我風くんが卒園してから先生になった金丸先生が案内役を引き受けた。
竹林、あじさい広場、えのき広場、たんぽぽ広場、果樹園、鳥組と風組の耕作地、ブルーベリー畑を見て回って、「ずいぶん広くなりましたね。草むしりでも何でもしますよ」の感想。
この日は、そのまま帰ってもらって、1週間後の6月8日の放課後に来てもらう事にした。

いろいろ習い事もやっているようだったが、その合間をぬってやって来た我風くんは、汗びっしょりになりながらも先生たちと一緒に黙々と草刈り作業に精を出してくれた。
そして、次は7月1日に来ることになった。

この日は川崎市の市政記念日で学校は休みだったが、幼稚園は年長児を連れて三戸浜遠足に出かけた。
三戸浜は我風くんも年長児の時に経験しているだけに、子どもたちの活動に合わせて、先生の手助けを的確にやっていく。5年生で、ここまで気が回るものなのかと驚かされるばかりだった。
「お世話になったので、恩返しがしたい」そんな思いを抱いて、働いてくれた我風くんの姿。胸がいっぱいになったひと時だった。

8月5日(金)四條尚彦くんが顔を見せた。

帝京大学の医療技術学部スポーツ医療学科に入り、野球部のマネージャ修行もしている身。何に対しても全力でぶつかっていく尚彦くんなので休日はないに等しい。その尚彦くんの夏休みが1週間ほどとれて、親元に戻ってきた。実質5日間ほどの休みだというのに、幼稚園の先生たちの手助けになればと、貴重な1日を幼稚園のために使ってくれたのだ。
気の遠くなるほどの量の夏草。刈るそばから伸びて行く雑草。幼稚園が夏休みに入ってほぼ毎日草刈りに追われている先生たち。
草刈り機に入れる燃料の調合の仕方、草刈り機の扱い方、刈り方などなど初体験者の尚彦くんは、田中先生から手ほどきを受けてスタート。太陽はじりじりで警報が出されている程の暑さ。20分に一回の水分補給(休憩)で膝丈より深い草の中を、動き回る。
どうすれば刈り残しを作らず能率よく作業を進められるかを考えながら草刈り機を操作している。
その仕事の仕方や考え方に、「立派になった!立派な大人になった!」と言葉もなく見つめ続けてしまった。

その後、食事をしながら「自分は風の谷で育った事によって、自分の考えを持ち、仲間の意見を聞き、物事を進めて行くというスタイルを身につけたように思います。風組で取り組んだ動物園づくりが大きかったです」と具体的に話をしてくれた。
年長児担任の経験のない先生たちは、「ふ~ん」と言った面持ちで聞いていたが「動物園作り」の実践経験のある清水先生は、「あの時のあの取り組みが子どもたちの中にそういう力を育てているのだ」と感じることも多かったようだ。

こどもたちが確かな力を持って生きていけるようにと、教育実践をするにあたっては仮説を持って教育内容を作って来ているが、その教育をうけた本人から「結果」を報告してもらえると、「やっぱりわたしたちの考えは間違っていなかった」と自信が出て来る。

そして、さらに内容豊かな実践ができるように「努力しよう」との思いを強くする。

2016年、エネルギーの湧く夏になった。

2016年8月8日

第19回 真昼の花火

梅の花が満開になると、桃の蕾がふっくらとして来る。

桃の蕾が日ごとに膨らみ、桃色の花びらが見え始めると卒園式。

心をこめて育てた子どもたちが、自分に誇りを持って巣立っていく姿は何よりも嬉しいことなのだが、私の気持ちには薄靄がかかる。

別れと言うものは、何故こんなにも寂しいのか。

しかし、2月に入ってから(卒園して)飛び立っていった子どもたちが、顔を見せるようになった。

先ずは、中学受験をした美羽ちゃんの合格報告。次は横浜国大に合格した友萌ちゃん。高校教師を目指している20歳になった駿吾くん。大学を1年休学してオーストラリアに留学する祥子ちゃん、アパレルの業界でアルバイトをしながらその世界を研究してみるという大学3年の大志くん。東海大学(1年)でラグビーをやっている風太くん。

幼いころの面影を残しつつも、真っ直ぐ前を見て自分の足でしっかり歩いている子どもたちの(青年たち)姿が、私を励ましてくれる。

3月の後半になると、大学受験結果をもって拓くん、健くん、萌ちゃん、彩ちゃん、華ちゃん、龍紀くんが遊びに来た。高校3年の健彦くんは、お母さんと一緒に顔を見せに来た。

連絡を受けて、お祝いに「何か作ってあげよう」と言うと「おはぎ」のリクエスト。三色おはぎを頬張りながら「おいしい、おいしい」と食べる姿は幼稚園の時そのままと言った感じだった。

その数日後には、高校入試の結果報告に22~23人がクラス会と称して集まった。

また、クラス会には入寮しているので来られないからと、前橋育英のサッカー部に入った詩音くんが事前に顔を出した。サッカーといえば、国学院久我山には隼介くんがいたはず。試合会場で出会ったら“風の谷の子”として声を掛け合うのだろうか、と想像した。

「クラス会」に集まった子どもたちは、進学先の高校名を一人ひとり報告してくれたのだが、覚えていない。

しかし、それぞれが選んだ選択理由は、彼らの進みたい“我が道”に繋がっているのが伝わって来て何とも頼もしい限りであった。

自分の進みたい目標をおぼろげながらでも持ち、努力をおこたらない子どもたちの姿に感動した。

「誇りを持って生きていけるような子どもに育てる」を教育目標に掲げ、自己形成を促してきた風の谷教育は確実に子どもたちの中で芽吹いている。この上ない幸せ感を味わった。

直接幼稚園に顔を見せる事はなくとも、手紙で報告をしてくれた子どもたちも数人いる。成長の結果(途中経過)が知れて本当に有難いことだと思う。

 

7月に入って嬉しい連絡がきた。

野球が好きで、ハ王子高校進んでいた陸朗くんが甲子園に出場が決まったという報告が届いたのだ。さらに福島県代表の聖光学園には陸斗くんがいる。2005年度卒園の子どもの中で2人が甲子園に行くのだ。

そしてそれを追いかけるように、滋賀県の彦根東高校に進んだ功征くんが高校1年で甲子園を目指している。

また、新国立劇場のオペラ「夕鶴」に出演しているのは、2011度卒園の悠くん。11月には「ラ・ボエール」に出演するからとパンフレットを届けに来てくれた。

この他にも、ピアノコンクールで優勝した東吾くん、ヒップホップダンスで活躍しているひびきちゃん、理大くんたちの報告が続く。様々な分野で力を発揮している卒園児たち。

私は「真昼の花火」を見ている様な、その輝きと生き生きとした卒園生たち“若者の爆発音”を聞いている様な気持で、いま八月、園庭にいる。私は心から「みんな風の谷の子だね」とつぶやいたが、その声がみんなに聞こえたかどうか。

第18回 竹馬作りは、父と子を「竹馬の友」にする

 1月16日(土)、風組(年長)の父親を対象にして竹馬講習会を開いた。
 一昨年、竹馬に乗れない父親たちの存在に気がついて積極的に対応することにしたのだ。

 風の谷では、親子の関わりをより確かなものにしたいという思いから、意図的に親子が関わる機会を作ってきている。
 鳥組(年中)では、「缶ぽっくりの紐作り」。
お母さんが編んでくれた紐を缶につけて「缶ぽっくり」にする、という取り組み。紐を編むことで、お母さんの「缶ぽっくり」への関心は深まり、親子の会話が増える事をねらっている。
 風組(年長)になると、羊の毛をお母さんと一緒に糸に紡ぎ、それを横糸に使って織り物をするという取り組み。親子で、糸を紡ぎ、それを織り、「ポシェット」に作り上げていくという共同作業を通して、創り出す喜びを母子で共有することをねらっている。

 幼稚園への送迎は母親が行い、月一度行われている学級ごとの懇談会で教育内容やそれに取り組む我が子の姿などを見聞きしていることもあって、母親の子どもへの理解は深いものになっている。
 しかし、父親はその機会がなかなか持てない事もあって、大ざっぱな捉え方になっている。これは子ども側から見ても同じようなものであろう。
 そこで、父親の姿を、子どもたちの中に実感の持てる確かな存在として位置付けるにはどうしたらいいかと考えて来た。そして、その一つの方法として、お父さんによる「竹馬作り」になったのだ。竹を家に持ち帰って、子どもの前で作ってやり、乗って見せて「お父さんってすごい!」を実感させてほしいというのが私の思いだった。

 ところがここ数年、お父さんが作ったという竹馬が減ってきた。また、お父さんが作った割には直ぐに壊れてしまうものが増えていた。
「どうしてだろう」という思いを持ちながら数年を過していたところへ、“竹馬に乗れないお父さんたち!”の出現で、お父さんだからと言って竹馬が作れるわけではない、ということに気がついたのだ。

 そこで、幼稚園で「講習会」を開き、作り方と乗り方の指導をすることにしたのだ。
 最近の竹は、節がしっかりしていないため、針金で節を補強するところからスタート。足台を竹に固定するためには、針金をきっちりとゆるまない様に巻きつけることがポイントになるのだが、一番難しい所でもある。教員たちも事前に練習して、この日は父親たちのサポートに回った。
 竹馬が出来上がると、そこからが私の出番となる。竹馬に乗ったことのある経験者も、青竹で作った竹馬に乗るのは初めてという人が多かった。
 乗った経験のある人もない人も、一様に「竹馬の乗り方指導」から入った。
   ① 高さに慣れるために足台に乗る。
   ② 足台の上でつま先立ちになる。その時竹と一体化するために胸とお腹は竹に添わせる。
   ③ 竹が揺れないために胸の上(おっぱいの上)で肘を上げる形で竹を持つ。
   ④ 前傾姿勢に慣れる。(補助員に支えてもらいながら前傾姿勢を繰り返す)
   ⑤ 竹馬からの降り方を学ぶ。(降りたい時に降りられることで怖さが軽減される)
 お父さんたちは、こちらの指示に従って、真面目に取り組んで行く。教える方も教えを乞う方も真剣そのもの。
  「おっぱいの上で竹は持って!」
  「お腹が竹から離れているでしょ!」
  「恐がっているからお尻が出っ張っちゃうんだよ!」
  「怖がらないで!」
  「私が支えているんだからもっと信じてやりなさい!」
 叱咤激励の言葉が飛び続ける。
 大人も子どもと同じ指導内容で臨んだ。しかし大人の方がやっぱり言葉を理解して行動に移すのは速い。
  「わあー歩けた!4歩歩けたのだから次は6歩ね。頑張ってね!」
 歩けるようになったお父さんたちも嬉しそうだが、教える側も半端でなく嬉しい。ついつい興奮して、手を叩いたり跳びはねたりしながら喜んでしまう。お父さんたちと教師陣がまさに一体化して喜びあっている図である。
  「こんなに褒められたのは初めてだ!」と嬉しそうにいうお父さんたちの声に、褒めた覚えのない私は「えっ、褒めたっけ?」と一瞬思ってしまう。そして、一所懸命努力するその姿が嬉しくて、見たままを言葉にしていただけなのに、人はそれを「褒める」ということかと思った。

 30分足らずの時間で、この日参加したお父さんたちは全員が竹馬に乗れる様になった。
 最後に「竹馬という教材」についてお父さんたちに話をした。
 竹馬に乗れるという技術を獲得したらおしまいなのではなく、さらに技を高めて行く面白さにも挑戦していくことを重要視している。
 乗れるようになったら、花いちもんめ(前後に歩く・片足を上げる)、どんじゃんけん(グー・チョキ・パーの足じゃんけん)、竹馬サッカー(ボールを蹴りながら相手とボールを取り合う)、階段の上り下り、坂の上り下り、そして最終段階では竹馬縄跳びなどである。 遊びの中で技を高め、自在に竹馬を乗りこなせる巧みな体と、高みを目指す心のありようが大切である。
 そんな力を風組(年長児)のこの時期に育てることは、その子の生き方にも影響するのではないかと思っているのだ。

 自分の手で作った竹馬に乗って、みんなと遊んだお父さんたちの笑顔は最高の「教育の成果」だった。

    2016年1月18日

第17回 風の谷プロダクション

 11月22日~23日の二日間、テレビドラマの撮影に園舎を貸し出した。山の中の養護施設「すみれ園」という設定だった。
 撮影隊は50人からの人数だったが、その人たちがきびきびと働いている姿は見ていて気持ちが良かった。
 養護施設と言う設定だった事もあって、5人ほど子役が必要との事だったので積極的に協力することにした。最近テレビに出ている子役たちを見ていて、演技のうまさに感心する半面、子どもの描き方が画一的なのが気になっていた。また、子どもなのに変に大人びていて、子ども時代をこんな子どもとして過ごしていいものなのかという疑問もあった。そこで、子どもらしい子どもとして存在している風の谷の子どもたちを使ってみたらどうかと提案したのだ。

 対象は年長児と言うことだったので、教員みんなで誰がいいかを話し合った。その結果、
 ①園の近くに住んでいてすぐに来られる子 
 ②大人にも、カメラなどの機材にも動じない子
 ③状況を理解して行動出来る子
 という線から選ぶことになった。

 声を掛けた子どもたちは、全員親から了解が取れて、2日間「登園」してきた。
 1日目の朝は、いつもと勝手が違うので少々興奮ぎみだったが、「声がマイクに入ってしまうので小さい声で話すように。それとあまり走りまわらないように」と声を掛けるとなんなくいつもの子どもたちに戻った。
 子どもたちは、「背景」あるいは「小道具」のような存在なので、台詞があるわけでもないし演技を求められることもない。それでも、その場で「絵を描いて」、とか「積み木で遊んで」と指示が出ると、自然体で動く子どもたちだった。
 指示を聞いて、屈託なく動く子どもたちは、撮影隊の人たちにはすこぶる評判が良かった。
 「子どもらしい子どもたちだ」「明るく素直で元気な子どもたちだ」「大人たちの動きに動じない子どもたちだ」などなど褒め言葉が次から次とかけられて「だから言ったでしょ!うちの子どもたちは本当に素晴らしいのです。」と胸を張ってしまった。
 
 そんな中、「2日目の撮影時は、“今どき”の服装をして欲しい」という要望が、助監督から出された。何を言われているのか初め理解が出来なかった。なぜなら、2015年11月という今を生きて生活している子どもたちが着ている服装は「いまどき」ではないか!と思ったからだ。
 ところが2日目の撮影は、1日目の撮影場面から14~5年経った場面という設定になっていたのだ。そこでわかったのは、風の谷の子どもたちの服装は、14~5年前の服装としてはぴったりだが、“今どき”からは時代遅れの服装ということだ。
 「うちの子どもたちは、これが普通なので“今どき”の服は持っていないと思いますよ」と応じ、結果、前日とは違う服装をして来ることで落ち着いた。
 風の谷の子どもたちの小ざっぱりした服装はどうも「昭和の子どもたち」のイメージとして今どきの大人たちには写るらしい。

 改めて知ったことだが撮影の大変さというのは、待ち時間が長いということだ。計画的に進行させているのだろうが、とにかく待ち時間が長い。撮影現場の人たちは慣れているせいか、淡々と自分の出番を待っているようだったが、私は子どもたちのことが気にかかってならなかった。
 ところが、子どもたちは全く屈託なく、逆立、側転、縄跳び、鬼ごっこ、粘土などなど、自分たちでいろいろ遊びを考えては遊んでいて、「待ち時間」の感覚は全くなかった。
 
 昼食に「ロケ弁」が支給されることになっていた。「ロケ弁」と言う響きが特別な食べ物のように思え、また、俳優さんやスタッフの人と同じ「ロケ弁」が食べられるのかと思うと、期待が膨らんだ。
 結果的には普通のコンビニ弁当だったが、子どもたちも「ロケ弁、ロケ弁」と嬉しそうだった。
 
 風の谷の子どもたちは、腹が据わっているし理解力と行動力は素晴らしい。「風の谷プロダクション」が出来るかもしれないと一人悦に入ってしまった。

第16回 最後の60代

 9月10日、60代最後の誕生日を迎えた。
 丁度この日は、病院の検診があり4時過ぎに園に戻った時だった。
 小池先生が、「新人教師の体操時の体の動きがどうも変なので見て欲しい」と言ってきた。ここ数年、「ラジオ体操第一」をやらせると、体の動かし方が何だか変な人が出ているため、私は疑うこともなくホールに足を運んだ。
 
 ドアを開けると同時に、トランペットの音が高らかに鳴り響き、何事が起きたのかと、一瞬足が止まった。
 ホールの中には机が四角くセットされていて、その上にケーキがあった。そこで初めて騙されたことを知り、誕生祝いの席になっている事を理解した。
 席に着くと、司会者の合図でハッピーバースデ―が歌われて「祝賀会」が始まった。
 
 第1部は橋本先生のポケットトランペット演奏。
 応援曲として「必殺仕事人のテーマ曲」「暴れん坊将軍のテーマ曲」「アルプス一万尺」の曲。胸がジーンとして涙が出そうになった。しかし、演奏の合間に「けっとばせーアマノ!けっとばせーアマノ!」という声が入るので、「なに?なに?」と思っていたら、それはどうも「かっとばせアマノ!かっとばせアマノ!」というかけ声のようだった。
 でも、いくら耳を傾けても私には「けっとばせーアマノ!」に聞こえた。橋本先生に対して叱咤激励の上をいく強制指導をしているだけに、「けっとばせーアマノ!」の方が、私にはピッタリに聞こえたのかもしれない。
 
 第2部は、金丸・小林・大内先生が首に袈裟を掛け、木魚を叩きながら入場し「般若心経」の読経を披露してくれた。夏休みに京都の仁和寺で研修を行った成果だ。
 誕生日に歌をプレゼントされることはあっても、「般若心経」をプレゼントされたという話はあまり聞いた事がない。3人ともなかなかのものだった。
 
 第3部は、私が最も喜ぶであろうプレゼントとして、みんなで考えたらしく、各々先生方の決意表明を聞かせてもらった。どの先生たちも、より良い教師をめざして頑張ろうとしている姿に、何とも言えない一体感を感じて、しみじみ「私は何て幸せなんだろう」と思った。
 
 そして最後は、私からのリクエストとして教員全員で「恋するフォーチュンクッキー」を踊ってもらった。ちょっとはにかんだ顔で踊る姿が何とも愛おしい。

 3年間「痛い、痛い漬け」だった体が、3度の手術のおかげで「痛い!」という言葉から解放された。
痛みのない体は、おしみなく動き回れる体に戻り、神経は隅々までに配れる様になった。縄跳び、逆立、側転、ダンスはしないまでも、やりたいことにすっと向える軽やかさが出てきたのだ。

 60代最後の一年、「高齢者」である事を忘れて子どもたちと時を過ごそうと思う。

第15回 野球部員20名、研修に来る

子どもが夏休みに入ってから、神奈川県伊勢原市向上高校の野球部員が「研修」として風の谷を訪れた。

幼児教育関係者の研修ならば、相手の希望を聞きながらその研修内容は簡単に組み立てられる。ところが、相手が高校生、それも野球部員となると全く見当がつかない。監督の平田先生からは特に注文は出ていない。それだけに余計「どうしたものか」と考え込んでしまった。

そこで、思いついたのが次の様なこと。

① 風の谷幼稚園の教員たちの夏季の仕事を一緒に体験する。
仕事の全体像を理解し、受け持った仕事を効率よく行うために段取りを考え、その所要時間を予測してそれを目標に作業を進める。
一緒に作業をするメンバーとは声を掛け合いコミュニケーションを図りながら活気を持って進める。
作業内容は、1回目に来た研修生は3カ所に分かれて1500坪程の雑木林の整備と畑の草刈りと、草むしり。2回目に来た研修生は6教室のワックスはがし。
教員も3グループに分かれ、作業の仕方を伝え時間を決め、働き方を伝えるという役割を持って取り組んだ。

② 教育活動「ことば・文字」のなかの“なぞなぞ”の授業を受ける。
教師が出すヒントを手掛かりにしながら“そのもの”を当てる授業。
仲間が出す質問とそれに応える教師の回答を聞きながら、必要な情報と不必要な情報に分け、確信できた時に「答え」として発表するといったもの。
仲間の発言を聞きながら、情報を取捨選択し物事に迫るというねらいをもった活動なので高校生にも充分通じるのではないかと考えたのだ。

③ 集団遊び「開戦ドン」をする。
2グループに分かれての遊び。
ジャンケンをして勝った方に相手を捕まえる権利が発生するので負けた方は、捕まる前に陣地に戻る、という遊び。
瞬時の判断で行動する事を要求される遊びで、年長児の遊びとして、一学期に実践しているもの。
また、勝つためにチームで作戦を立てることが要求される。一人ひとりの動きは様々であっても、仲間の動きと相手の動きを見ながら自分の動きを決めて行く遊びなので、野球部員にも何らかの意味を持つのではないかと思ったのだ。

④ 研修を受けての感想と教員たちとの交流。
1回目に来た高校生たちとの交流が不十分であったことから、2回目は単なる感想を話すのではなく、的を絞って「野球部員としての自分の課題とその対応策」を話してもらうことにした。
野球部員たちは、日頃から自分の課題を自覚的に受け止めているせいか、対応策に具体性を欠く子もいたものの臆することなく語ってくれた。
「課題と対策(その課題を乗り越えるための努力の具体的な方法)」という考え方は、風の谷の教員たちにも、子どもたちにも常日頃から言っているもの。
ともすると「頑張ります。」という言葉でその場をやり過ごすことが多い生活の中で、具体的な行為と結び付けて考えるようになれば、必ずその課題は乗り越えられると思っているからなのだ。

以上4つの内容を研修内容として行ったが、これで良かったのかどうかはわからないが、引き受けた私たちにはとても貴重な体験となった。

作業内容が異なる3グループに分かれて作業をしたのだが、グループ(4~6人)によって作業時間と作業後の達成感に大きな違いが出ていた。
野球部員を引き受ける側として、3つのグループにはリーダー的な役割を負う教員を決めておいた。
そして、不慣れな場所で不慣れな作業をする野球部員なので、やるべき作業内容をはっきり提示し、見通しが持てるように指示を出すようにしておいたのだ。

ところが、3つのグループのうちの1グループに問題が出た。
指示を出すべき教員が下を向いて黙々と作業をしているため、高校生たちは何となくその場にいて手を動かしてはいるものの、作業に熱が入っていない。結果、終了時間になっても作業は終わらず、他グループからの助けが必要となった。

ここで改めて、“人を生かすも殺すもリーダーのあり方なのだ”と思った。そして、声を掛け合うこと(作業の進行や自分の動きに対する報告のようなこと)が一体感を生み活気を生み出して行くことも分かった。
これは、対象者がこどもであればあるほど先生の指示が大きく影響していくことになる。的確に指示を出し、“意欲的に行動する子どもたち”にするには教員たちの力が問題になる。その力をどうやって育てたらいいのかと、より深く考えるようになったのだ。

また、野球に関しては、全く素人の私だが、野球が強くなるには一人ひとりが確かな自分を持って、技術を高め、向上する充実感を感じながら甲子園を目指すことなのかもしれないと思う様になった。
あの部員たちが、今後どう成長していくのか、力をつけて行くのか、がぜん興味が湧いて来ているので向上高校の野球の試合を出来るだけ見に行きたいと思っている。
それと、向上高校野球部員の研修を引き受けたことで、幼児教育との共通性も感じとても参考になったのだ。

特別回 カーテンを開けると

 712号室が私のいる病室。
 カーテンを開けると
 窓の真ん中に鉄塔が14本の送電線を両手に広げてそそり立っている。
 足元には里芋の葉っぱが生い茂り
 その右側の畑にはミカンの木が青く固い実をつけている。
 左側に植わっている柿の木は樹齢40~50年は経つのだろうか、一抱えもある見事な木だ。
 それが体いっぱいに葉を生い茂らせている。
 西日のきつい病室だけれど、鉄塔の向こう側に見える空の変化に心がひかれ、 本を開いていない時は飽かずに
 眺めて過ごした。

 鉄塔の向こう側に虹の橋らしきものがみえる。
 ぼんやりしていて今にも消えそうだが間違いない。
 送電線で区切られている虹は鬱陶しげに遠慮深げだ。
 何だか虹が気の毒に思われた。

 木々の揺れで風の存在を知り
 路面の色で雨を知る。
 雲が刻々と色を変え姿を変える。
 風に流れる白い雲
 たれ込めた重い空
 人はみな空を見上げて
 何かを感じ何かを思う。

 カーテンを開けると外界が動き出し
 カーテンを閉めると閉ざされた病室という空間。
 アンネフランクのことが脳裏をよぎる。
 アンネは、窓から見える空に、雲に、雨に、
 太陽に、小鳥に何を思っただろうか。

 戦後70年を記念してメッセ―ジが伝えられて来る。
 まさにこの時代と共に生きてきた私は何をなすべきなのか
 何ができるのかと、空いっぱいの雨雲を見ながら
 ベットに横たわっている。

 カーテンを開けると
 そこには送電線に遮られながらも
 広い広い空が広がっている。

     2015年8月

第11回 職員会議の決定は「即入院せよ!」

 2013年3月に変性すべり症の手術を受けてから1年9カ月。痛みが多少軽減したものの痛みから解放されたことはない。「きっと時間が経てば痛みはなくなる」と明日に期待して今日まで来た。
 「効く!」と聞けば気功も鍼灸もやってみた。施術を受けた直後は、改善されるものの半日も経つと再び元に戻ってしまう。それでも、時間をかければ治るはずと自分に言い聞かせ、毎日を過ごしていた。

 手術直後から、足の付け根と臀部の痛みが続いており、最近はその痛みが大きく鋭くなっていることもあって、整形外科で股関節のレントゲンを撮ることになった。そこで見たものは、股関節の骨が潰れているという事実だった。
 医師は、「骨の再生はないだけに、これ以上悪くならないうちに人工関節にしたらどうか」と提案してくれたが、その時は園運営のことをあれこれ考え「8月の夏休みを待って手術をすることにします。」と応えた。 

 職場のみんなには11月17日の職員会議で診断結果を伝えた。すると、清水、小池先生が12月と1月の予定表を見ながら、なにやらもの言いたげに顔をあげた。そして、「終業式が終わってすぐに入院すれば、入院に必要な日数は確保できます。3学期の始業式の園長挨拶はなくていいことにして、次の日の身体計測も他の人と変わる事が出来る。そう考えれば12月22日から1月12日まで休みがとれます。1月6日の同窓の“冬のあそび会”と“近隣の挨拶回り”は残った教師だけですることにすれば、22日間連続で休養できます。その後、1月の教育活動は、たて割り活動が主な活動になるので天野先生にかかる負担は少なくて済みます。ですから、早めに手術を受けて下さい。」という。そして皆も大きくうなずいた。

 職員たちの強い希望で、年内の手術に踏み切らざるを得なくなった。まさに“覚悟”を強要された感じであった。心に迷いがなかった訳ではないが、すぐに担当医師と話をして12月24日入院、25日手術と決めた。
 手術が決まると、体中の検査やら、輸血用の血液採取がある。輸血用の血液は3回に分けて一度に400ccぬくとのこと。聞いただけで体中が「嫌だ、嫌だ」と怖がり始めた。
 計量カップに水を汲んで、400cc×3=1200ccを確かめたのも良くなかった。胸の動悸が激しくなった。
 両足の股関節の手術は怖くはない。なぜなら全身麻酔で意識が無い中での切ったり削ったりだから。
私の神経がピリピリ拒否しているのは、体に針をさすことなのだ。子どもが注射しているのも見ていられず、貧血を起こす程の注射器嫌いだ。小さい時のトラウマなのだ。
 と言うことはありながら、とにかく2014年の年末と2015年の年始は病院の中で過ごす事になった。

 入院期間は3週間と言う。2~3日は辛いだろうがそれ以降は時間がたっぷりある訳だから、有意義に使おうと、急に頭の動きが活性化した。
 鳥組のあやとりひもを60本編んでやろう、それと何十年かぶりになるが絵も描こう、年賀状の返事もゆっくり書こう、縄跳びの指導方法、劇づくりの指導方法もまとめられそうだと、次から次へやりたいことが浮かんでくる。
 年末年始の病院は、静かで退屈だろうから、元気な入院患者向けのイベントを企画しても面白いのではないか、なんてことも思い浮かんでくる。
 何だか長期旅行に行く気分になって、シルクのパジャマも新調した。
そして、痛みがとれて退院出来たら、こんな嬉しいことはないわけで、あれもこれもやりたい。やりたいことが山盛りだ。
 前回の手術後は「無理をしないでください」と申し渡されていたものの、「無理」の度合いが分からなかったため「これ以上は動けない、だからこれ以上を無理と言う」と言う判断をしていた。じつはこれは“無謀な無理”に繋がっていた。
 身にしみてわかった。だから今度は「無理」はしないで行動しようと、入院前の私は殊勝にも思っている。

第13回 心はどう育つのか

 背骨にビスを4本入れ、両足は人工股関節にして、だんだんサイボーグ化してきている私だが、手術のおかげで数年ぶりに痛みから解放された。

 靴下が履けない、人が来ても素早く玄関に出られない、電話が鳴っても7回呼び出し音が鳴らないと受話器がとれない、洗濯物を干すのが苦痛でならない(洗濯ものを干すのにこんなにも腰を曲げたり伸ばしたりするとは思わなかった)、下にある物を拾うのにしゃがみこまなければならず、しゃがみ込むと起きあがるのにつかまるものがないと立てない。
 そのため、いちど座ったら家の中の移動はほとんど這っての移動になっていた。素早く動けない自分に苛立つことしきりであった。

 それでも、一人の時はいいのだが、そばに夫がいる時はストレスが最高潮に達した。
 お風呂のスイッチをつけて欲しい、カーテンを閉めて欲しい、落ちているごみを捨てて欲しい、配膳を手伝って欲しい、植え木に水をやって欲しいなどなど、夫への「して欲しい事」が増えた。
 すると、これまであまり気にもしなかった夫の動きに対して「こちらがこんなに痛がっているのに、なぜ知らんぷりができるのか!」と日ごとに不満が溜まっていった。

 とくに出勤前、時間を気にしながら靴下が上手く履けず困っている私の横でテレビを見ている夫の姿に、怒り心頭の思いだった。
 また、痛み止めのテープを腰から臀部に貼る時も、上手く貼れずに苦労している姿がそこにあるのに何の反応もしない夫に最大級の失望を感じ始めていた。
 「やって欲しいと頼む時は、本当に痛くて出来ないから頼むのであって、少しでも我慢できる痛みであるなら頼んだりはしない。大げさでなく本当に痛いのだとなぜわかってくれないのだ!」と抗議もした。
 
 そして、「夫婦とはなんなのだろう」と真剣、深刻に考える日が続き「一緒に居る意味がないのではないか」という結論に到達していた。

 両股関節を人工関節にしたことで痛みが嘘のように消えて、夫に対する不満は日ごとに薄らいでいった。
 思い通りに動けるようになったことで苛立ちが消えて行ったのだ。
 日常生活が、自分の意志で思いどおりに出来ると言う事がどんなに素晴らしい事であるかをしみじみと知った。

 別居宣言を受けた夫は、心を入れ替えてだいぶ努力するようになった。

 夫との関わりを通して、様々な事を考えさせられた。

 「痛み」は個人的なものだけに、それを他の人が理解するのは難しいのかもしれない。理解して欲しいとおもうのは所詮無理なことなのかもしれない。
 だから、無理を前提にしてその時のその人の気持ちを少しでも汲とろうと心が動く私でありたいと思ったのだ。
 また、私の腕の中に居る子どもたちにも、そんな大人になって欲しいという思いを強くした。

 
 私は、子どもたちを育てるにあたって、常々考えていることがある。

 「労力を惜しまず、歩く事を厭わず、寒暖に左右されず行動できる子どもであって欲しい」、そして「優しく賢い子に育ってほしい」。
 さらに、成長するに合わせて、「人には誠実に、物事には勇敢に、そして志を持って人の役に立つ人間」になってくれたならどんなにか嬉しいだろうと。

 私の思い描く「子ども像」、「人間像」を実現するには、具体的な実践がなければならない。
 そのため風の谷では、子どもたちに相手の気持ちを汲み取ることや、その時の状況を判断して行動出来るよう指導をしている。

 例えば、言葉の獲得がまだ不十分な3歳児には、その子の思いを先生が汲み取って言葉にして相手に伝えてやったり、相手の気持ちを言葉にして伝えてもらったりする事を基本としている。この経験が、成長と共に言葉がなくても相手の気持ちを汲み取ろうとする関わりになっていく。

 先日、4歳児が二十日大根と小松菜を収穫した。収穫後は、担任が調理して昼食時にみんなで食べることを伝えている。種を撒いて、水をやり、草をむしって間引きもして大事に育ててきたものだけに、子どもの作業も丁寧になっている。
 担任は子どもたちに「小松菜は茎が折れない様に束ねてひっぱり、二十日大根は茎の根元を持って引っ張るといいよ。」と声をかける。そして、収穫した後は、「向きを揃えて籠に入れると、傷まないし料理する人がやり易い」ことを付け加える。
 すると、子どもたちの中から無造作さが消え、さらに慎重に並べて行くようになる。

 また、昼食時のお茶も「カップを一カ所に集めてお茶をいれると、早くみんなに配れるよ。そうして友だちに渡すとお弁当が早く食べ始められるからね。こぼさない様に気をつけてわたしてあげてね。」と声をかけておくと、こぼさない様に気をつけながら仲間に渡して行く。
 
 子どもたちは、自分がどう行動すればいいかを知り、自分の行為が他の人につながっていることが分かると、その中で、他の人への気遣いを自然体で身につけて行く。

 入園したての3歳児が泣いていると、ティッシュペーパーを取りに行って涙を拭いてやったり、泣きそうだからと手をつないで園舎内を歩いていたりする年長児。
 相手の動きを見て予測して、自分が相手に対して何をしてやればいいのかを考えて、無条件で動けるようになっている子どもたちの姿を見ると、なんて優しい子どもたちなのだろうと思う。

 「優しさを育てること」を目的とした主活動はないが、一つひとつの活動や生活の中で、相手を意識し相手の立場にスッと身を寄せて、対応出来るような心の動きを育てるには子どもに関わる大人の声掛けや動きが大きく影響しているように思える。
 
 人のために役立つことが最良の喜びと感じる幼児期にこそ、身につけさせてやりたい心の動きだと思っている。

 私からの「こうして欲しい」という要求を受けて動く夫は、意識的に行動しなければならないためしんどさがあるだろう。
 だから、私は子どもたちには、無自覚で当たり前のこととして反応できるところまで「心の動き」を昇華させておきたいと思っているのだ。

第12回 男への幻想!

~遊びにあけくれた子ども時代~
 私には3歳年上の兄がいる。
この兄は地域のガキ大将だった。女の子は仲間に加えてもらえない男の子集団なのだが、私は兄の力でこの仲間に加わって遊ぶことが多かった。
 
 遊びの内容は幅広く挙げればきりがないほどだ。そして、遊びは季節によっておおよそ決まっていた。
めんこ、ビー玉、釘倒し、魚釣り、木のぼり、ザリガニ捕りにドジョウ捕りは夏場で、秋から冬にかけてはイナゴ採り、用水路でのかいぼし、野焼き、凧上げ、こま回し、竹馬などなど。季節に左右されず一年中遊んだのはチャンバラごっこや缶けりだった。
 お天気の日は、ほとんど外で遊んでいた。
 この遊び集団は大体1年生から6年生で組織されていたが10人前後の塊だった。
 その集団のガキ大将が兄だからと加えてもらっていたが、当然ミソッカスでお荷物になれば、仲間から外される。しかし私は運良く「おとこおんな」「おてんば」と呼ばれる程に、勇気もあったし行動力もあったのでウトまれることもなく仲間の一員として遊べた。
 
 しかし、一度だけ悔しい思いをしたことがある。
 それは、3年生の頃だったと思うが、一つ年上の子と河原で相撲を取って負けたことだ。そんなはずがないと、数度挑んだものの勝てなかったのだ。
 それまで、木登りも、ターザンごっこ(大きな木の枝に縄を結んで木から木に飛び移るあそび)も、お宮の屋根に登るのも、チャンバラごっこも私の方が大胆だった。だから兄の庇護があったからというだけではなく男の子たちの上に君臨出来ていたのだが、相撲での敗北は私にこの集団から離れる時期が来ていることを教えているようだった。
 父も母も、私が自分より身体の大きい男の子と相撲やレスリングをするのを、機会ある毎に咎めていた。「女なんだからみっともない真似はするな」と。
  4年生になると、丁度兄も、中学生になってこの仲間から自然に抜けた。それを潮時に私も抜けた。しばらくの間は、「あそぼうよ」と声がかかっていたが、こまと竹馬以外は仲間に加わらなくなっていた。
 
 こまは、冬休みに入ると一気に盛り上がった。
 皆が集まるのはお宮の境内で、こま回しの仲間には中学生も数人加わった。
回すこまは大山ごまだ。「天下取り」という遊び方で、こま同士をぶつけあって相手の動きを止めるというものだ。上手く当たると相手のこまは真っ二つに割れた。割った方は得意満面になるが、割られた方は泣き出しそうになる。そう簡単に親はこまを買ってくれなかったからだ。
 1~2年生は、直径6~7センチの大きさで、力が強くなるに従って10~12センチの大きなこまになっていく。遊ぶ上で、こまの大きさの規制はないのでこま紐を強く引ける小学校高学年から中学生は皆大きなこまを使っていた。
力の弱い私は大きさでは太刀打ちできないので、工夫したのはこま紐だった。購入時こまに付いて来るこま紐は麻の紐だ。麻100%の紐だとこまに吸いつく様にはまけないので、一旦ほどいて綿の布を編み込んだ。そのうえで水に浸し麻と綿とがなじむように石でたたいて軟らかくした。こうすると力の弱い私でもこまは唸るように力強く回った。
 
 竹馬は、近くに竹林があったこともあって簡単につくれた。のる台は固薪を手ごろに鉈で削って作った。竹馬を作るのは、どこの家でも父親の仕事であった。
 男の子集団に加わって行動を共にすることは大幅に減ったものの、こまと竹馬の時期になると仲間に加わり5年生頃までやっていた。
 
 その頃こまや竹馬は男の遊びとされていて、上手下手はあるものの男の子であればどんな子でもやっていた。
(その頃女の子の遊びとされていたのは“まりつき”や“ゴム跳び”だった。これはこれで面白く、学校では熱中して遊んだ。)
 
 だから、男は「こま」と「竹馬」が出来るものと疑いもなく私は思いこんでこの歳まで来た。
「こまや竹馬が出来なければ男じゃあない!」と言う目で見て来た私にとって、「まわせない」「乗れない」男たちの出現は大きなショックだった。

~父と子の関係づくりとして~
 子どもが小さいと、父親との関係づくりはなかなか難しいものがあると聞く。
男親としてどう関わったらいいのか分からないまま子どもの面倒をみているケースが多いともいう。そんなこともあって、竹馬はお父さんに作ってもらうものとして位置付けた。

 自分で作った竹馬であれば、子どもが乗れるか乗れないかに関心を持つだろうし、竹馬の出来不出来も気にかけて修理をしてくれるだろうし、何よりお手本になって、父親の格好良さを見せることができればと考えたからだ。
 この時点では、お父さん全員が「こま」「竹馬」は出来るものと思っていたのだ。
それが、出来ない、やったことがない、というお父さんが増えて来ているということが分かったからには、その対策を考えなければならなくなった。

~男の子が男になる遊び?~
 風の谷幼稚園では4歳児の3学期に木ごまを遊びとして導入しているが、目の色を変えて遊び続けるのは男の子たちが多い。
 1年前から回し続け、技に長けている年長児を横目で見ながら自分達も技をみがいている。
時には年長児の仲間に混じって、戦いを挑んでいる。
 顔つきも次第に男の顔になって行く。
 言葉づかいも男言葉になって行くのが面白い。「こまやろうぜ!」「オレのほうがよく回っているぞ!」「オレたちの仲間な!」などなど。また、不思議なのだが互いに呼び捨てで呼ぶようになってくる。

 園では男女の区別なく遊びは提示しているが、男の子が中心になる遊びと女の子が中心になる遊びがある。
ちなみに“あやとり”は女の子が中心に技を磨きながら遊びの輪を広げている。
 勝った、負けたの勝負がどうも男の子を熱中させているように思える。

~男女の差が出ない竹馬~
 竹馬は5歳児の同じく3学期での導入だが、こちらは男女関係なく技を磨いていく。
平らな場所で歩けるようになると、坂道や階段のぼりに挑戦し高さも節を上げて高くしていく。自在に乗れるようになると竹馬サッカー、竹馬花いちもんめ、竹馬じゃんけん、竹馬縄跳びと遊び方も高度になっていく。

~個の力を高めながら仲間と競い合う楽しさを~
 遊びの面白さと言うのは、その遊びに発展性があるかどうかで決まる様な気がする。
こうしてみよう、ああしてみようという工夫や技に挑んで巧みさを獲得していく達成感。
また、遊びを通して繋がった仲間関係は信頼関係で結び付いているのが良く分かる。

 こまや竹馬やまりつきやあやとりは、「むかしのあそび」と言われているようだが、子ども時代に是非遊ばせたい遊びだと思っている。
自分で目標を設定してそれクリアすることに喜びを感じ、仲間と一緒にいるからこそ互いの技磨きに熱中し、遊び方が膨らんで行く。
 そして、結果的には身体全体のバランス感覚や手指の動きのしなやかさなどなどが自然と身に付いていく。

 遊びは大事と、誰でもが言う。
どんな遊びが大事なのかを明らかにしながら、具体的に子どもたちに教えられる、伝えられる先生の存在がなりより求められているように思う。